代表者のつぶやき

母、正子の話をします。
母の最後は、話も出来ず、自力で眼も開けられないほど衰弱していました。
担当医から手の施しようが無いと言われた後、二週間もの間、食事は勿論、水一滴も飲まずにただ心臓が動いているだけでした。
母は意地で、死にざまを見せたのかも知れません。
「こんな人ははじめて見た」と担当医が言っていましたが、私は何十年もその様な母を見てきたので案外驚きませんでした。
母曰く、それが何なのよ、と言った所でしょうか。
そして、7月の曇り空の日、死因、老衰により旅立ちました。
僕は今、この様な仕事をしています。
ただ、生前の寝たきり状態の母の身体を拭いた事は一度もありません。
便利な介護用品を持って行った事もありません。
何かを食べさせた事もありません。
排泄の手伝いをした事もありません。
一度だけ、車いすを押した事があるだけです。

日に日に忘れる事が増えてゆく母のお見舞いに行くのも、仕事を理由に月に一度ぐらいでした。
それも5分ぐらいでした。
言い訳じみていますが、ぶっきらぼうの僕を見せるのがお見舞いのつもりでした。

あるベテランのヘルパーさんに「自分の親の介護だけは出来ない」と言われた事を覚えています。
僕も訪問介護員の資格は持っていますが、この言葉には色々と考えさせられます。
「たまに来ないと、お前の顔忘れちゃうよ!」と言われたのはいつだったでしょう。
僕は、無敵だった人の「老い」が怖かったのだと思います。
本能的に。
母の生きざまの話をさせてください。
母はいわゆる戦中派と言うやつで、水戸高等女学校在学中に戦況が悪化し常陸太田市に疎開しました。
日立市への空襲を真っ暗な田舎から眺め「花火みたい」とみんなで言っていたと話していました。
もともと生まれは常陸太田市だったのですが、祖父の仕事の都合で日立市の河原子町に引っ越したのです。
母は学校在学中にリウマチを発病し、その後一生この病と付き合う事になります。

本人は「高等女学校なんて見え張って行くからリウマチになったんだ。田舎から汽車に乗るのが恥ずかしい」と随分とワガママを言った様です。
しかし、同級生から「まさやん」と呼ばれ(やん、は男性に付けるあだ名)、それなりに楽しい青春時代だったのではないでしょうか。
戦後、実家の町工場も何とか軌道に乗った頃に父と出会いました。
出会ったと言っても父は実家の町工場の工場長だった人間でこの人間を他の工場へ引き抜かれたくなく、かつ安く使えると言うのが結婚の理由だったと想像します。

高度経済成長の波に乗り父は独立して成功を収めました。
当時の田舎町では珍しく、母は早くに自動車免許を取りました。
教習所など無い時代です。俗に言う”一発免許”8回目でやっと免許取得したそうです。
トラックの運転手が手を振ってきたり、ライトをパッシングしてきたりしたので「なめんなよ!」とばかりにアクセルを踏み込んだらその先にパトカーがいた事も多かったそうです。
車のアチコチ擦るので修理業者さんから「奥さんが運転辞めたらウチは潰れちゃうよ」と言われたそうです。
母は「戦後」や「リウマチ」と言うワードを使い、絶妙に家事から身を遠ざけていました。
僕はお手伝いさんに掃除、洗濯と、親戚の作るご飯で育った様なものでした。

もっとも母の作る手料理は、ほぼ信じて貰えない凄いものばかりでしたが。
肉じゃがに胡麻が入っていた時には、「珍しくニクい事をやるな」と思って良く見ると、アリの行列だったり、「包丁欠けちゃったから、気を付けて食べな」と言われたり。
戦々恐々なご飯の時間だった時もありました。

そう言えば、茶色く糸を引いた豚肉を水道で洗っていた事もありました。
僕はそれを見て慌ててゴミ箱に捨てましたが、食卓には何故か炒めた豚肉がありました。
洗濯物も3日は取り込まなかったと思います。
よく虫が付いていました。

お中元などの頂き物も、重ねて置きっぱなしなので一番下の物を頂くのは1年後と言う事もしばしばでした。

身体的に大変だった母ですが、琴、三味線、踊り、革染め、お華、様々なお稽古事から、手芸や最後はゴルフにまで手を出していました。

麻雀も大好きで、特に七対子(通称ニコニコ)と言うニクイ上り手が得意だったらしく、そんな大人たちの騒ぎで少年の僕は眠れない日々を過ごしていました。

すぐに友達を作ってしまう、そんな人間でした。
僕は、きっかけがあり水戸市に引っ越しました。
それが今の僕の仕事です。
当時、僕の仕事は変わっていた様で、テレビや新聞などメディアで多数取り上げて頂きました。
母は、「珍しがられているだけだ!」と憎たらしい事を吐いておりました。
店舗を一見して「こりゃあダメだ!」とも言われました。

ダメでも何とか20年以上は続けていますが。

僕が家を出て、しばらくし父が他界しました。
母は深夜、僕とふたりで実家へ父の亡骸を運ぶと「眠い!」と怒鳴ってさっさと床に就きました。
「死にボトケより生きボトケ!」と悪態をついていました。
そんな母ですが、賑やかな法事が落ち着いた頃「寂しいから、一週間に一回で良いから、「ウチに泊まってくれないかなあ」と愁傷な言葉を吐くようになりました。
仕方がありません。

毎週日曜日の夜には車を飛ばして日立市の実家へ帰る事にしました。

お盆で帰省した時です。
実家の仏壇の掃除でもと思って中を覗くと、暑さで半分に潰れた桃と大量の虫が飛んでいました。
さすがに母を注意すると、翌日には桃は無くなりましたが、その場所にキンチョールが置いてありました。
その様なおかしな日々の中、東日本大震災が発生しました。
余震が続く実家が怖いと言って、僕の住む水戸市へ数日「疎開」して来ました。
人生二度目の疎開だ、と笑っていました。

食事を終え、帰る時には決まって背中越しに片手を上げ「またね」とキザに言っていたのを覚えています。
世の中も少しずつ平穏となった頃、母は不注意により派手に転んで数日間入院しました。

僕は「殺しても死なない人だ」とたかをくくっておりましたが、
案の定、退院の日の夜には「お寿司が食べたい!」と始まりました。
医師には勿論止められていましたが、醤油皿を持ち上げて
「後生だから、ビールをこれだけで良いので、下さい。後生です!!」と言って来ました。
戦中、戦後の中を生き抜いてきた胃袋はそうとう頑丈でした。

80歳を過ぎ、また転びました。
何度か入院したようですが「それが何なのよ」と本人が言う事もあり僕も仕事中心の生活を続けていました。
週一回の帰省も続けました。
そんなある日、実家に帰る日ではないのに「今夜は帰って来られない?」と言う電話がありました。
僕はどうしても外せない先約があり帰れませんでした。
その夜、母は倒れました。
それから様々な病気との闘いが始まりました。
いろいろな方の助けもあり、退院しては再び入院し、たまに元気になる、その繰り返しでした。

でも、僕がマンションに引っ越すと行った時には、病室の中で車いすに座り、おもむろに足を組んで
「今時分、マンション投資かあ。うーん」と考えていました。
投資ではないのですが、僕は無敵だった人にまた会えた気がしました。
そんな母の夢は、毎日のように見ます。

毎日のようにニコニコ笑っています。

代表取締役 渡邉幹郎